追悼 渡辺裕之さん 上島竜兵さん
- 四柱推命運鑑定士 真織那
- 2022年5月14日
- 読了時間: 13分
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
渡辺裕之さん
1955年12月9日(66歳)
日 月 年
甲 戊 乙
辰 子 未
71 61 51 41 31 21 11 1
辛 壬 癸 甲 乙 丙 丁 戊
巳 午 未 申 酉 戌 亥 子
上島竜兵さん
1961年1月20日(61歳)
日 月 年
癸 己 庚
丑 丑 子
65 55 45 35 25 15 5
乙 甲 癸 壬 辛 庚 己
未 午 巳 辰 卯 寅 丑
そして戊が増幅すると水を潰してしまいます。
ストレスを抱えやすく、災難を引き寄せやすい。
悪神が動くときは用心深い生き方が必要です。
自死(自殺)は目の前の問題から簡単に逃げられるように思われますが
実は逃げられないし、自分にまた同じ課題を与えることになります。
「神へ帰る」 第10章
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― あなたの人生で起こるすべて、
あなたの死も含めて ―
因(もと)はあなただ
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すばらしいですね。ほんとうによくわかりました。ありがとうございます。
ところで、できたらちょっと話を戻したいんですが。
少しお聞きしにくいことなんですよ。
いいよ。どうぞ。
今回の対話で、だれでもみんな自分で自分の死を引き起こすのだと初めて聞いたとき、
わたしがすぐに思ったのは、もしそれが本当なら、
死はすべて自殺になるんじゃないかってことでした。
あれからずっと、そのことが気になっているんです。
それは正確じゃないね。
誰もが自分で生涯を終わらせるといっても、
意識のレベルで故意にそうすることを選んでいるという意味ではない。
それに、ある条件や状況から逃れるたみにそうする、ということでもない。
何かを引き起こすこと、それを意識的に選ぶかどうかとは、まったく違うからね。
どういうことですか?わからないなあ。
あなたは事故を起こすかもしれないが、だからといって、
事故を起こそうと意識的に選んだことにはならないだろう。
なるほど、そういうことですか。
もっとはっきりさせようか。あなたの人生で起こるすべて
― あなたの死も含めて ―
の因(もと)はあなただ。ほとんどの人は意識的には気づいていないがね。
でも、そのことに人が意識的に気づいているとしたら・・・
だって、人びとに意識的に気づいてもらうことがこの対話の目的ですよね・・・
その人が死ぬのは自殺だってことになりませんか?
その考え方に照らせば、生涯を終えることの因(もと)には必ず本人がいるわけでしょう?
わたしは何か誤解していますか?
死が自殺であるためには、二つの条件が必要だ。
①自分が何をしようとしているかを認識していること。
つまり、意識的に死を選択すること。
②人生を完了させるためではなく、そこから逃れるために死を選択すること。
この対話の目的のひとつは、あなたがたに肉体的な生命の神聖さをわからせること、
身体に宿る生命が言葉にならないほどの贈り物であると理解させることだ。
以前、死は力強い創造のときだと言ったが、そのとおりなのだよ。
しかし、それはあることを「するため」のものであってあることから「逃げるため」のものではない。
自殺にはとても大きな苦痛がつきまとうので、取り上げたくないくらいなんですけどね。
もちろん、その苦しみを最初に味わうのは、苦悩のはてに自分で人生に終止符をうとうと決意する当人で、そのあとは家族や友人たちですね。
自殺に関係するみんなの気持ちを楽にしてあげることはできるんでしょうか。
自殺した人は大丈夫だ。
オーケーだとわかれば、気持ちが楽になるだろうね。
その人たちも神に愛されていて、決して見放されることはない。
ただ達成しようとしたことができないだけだ。
自殺を考える人は、そこをよく理解することが大切だよ。
それじゃ、自殺しても罰せられることはない、とおっしゃるんですか?
あなたがたが「あの世」と呼んでいるところに「罰」などというものはない。
自殺によって罰せられるのは、遺(のこ)された人たちではないか?
遺された人たちは信じられないほどの衝撃を受けるし、二度と立ち直れない人だっている。
みんな、とてつもない喪失感を味わう。
生涯、自分を責めつづける人も多い。
自分は何か間違ったことをしたのだろうかと考え、何を言ってやれば自殺させないですんだのだろうと悩み苦しむ。
悲しいことに、自分の人生に終止符を打つ人たちは、これでものごとが変わると想像しているが、実はそうではないのだよ。
何かから逃れるために人生を終わらせても、何からも逃れられはしない。
もういちど言うが、何かを避けるために人生を終わらせようと考えても、それは不可能なことを考えているだけなのだよ。
つらいことを避けたいと願うのは当然だ。
それもみな、人間が踊りつづけているダンスの一部だよ。
しかしこの場合には、人は魂の経験を遠ざけようとしているが、魂はその経験から逃れるためではなく、経験をするために身体に宿ったのだ。
その経験がつらいとか困難だからと、人は何もない虚空(こくう)に逃れようとする。
何にもぶつからずにすみ、怖いものもない虚空に入ってしまおうとする。
だが、人は虚空に入ることはできない。
なぜなら入るべき虚空はないから。
虚空などは存在しない。
この宇宙のどこにも虚空はない。
いや、どこにもありはしない。
「何もないところ」などないのだ。
どこへ行っても、そこは何かで満たされている。
それは何なんです?
何で満たされているんですか?
あなた自身の創造物によって。
あなたはどこへ行っても、あなたの創造物とぶつかる。
逃れることはできない。
それに逃れたいとも思わない。
なぜなら、その創造物を生み出したのは、自分自身を再創造して楽しむ(re-create)ためだから。
したがって、その創造を回避しようとか、避けようというのは、あなた自信のためにならない。
虚空に躍りこむなんて、できないことなんだよ。
別の言い方をしようか。
虚空(a void)のダンスは不可能だ。
なるほど、うまい言い方ですね。
とても印象的な表現だ。
わたしはよく、こういう言葉の使い方をする。
こうすると、あなたがたも伝えたいと思うメッセージを覚えやすいし、忘れないでいられるからね。
そうですね、こっと忘れないだろうな。
「虚空のダンスは不可能だ」
そう、不可能だ。
なぜなら、死ぬときの状況を、その後も生き続けることになるから。
それはとても強烈な言葉ですね。
そのつもりだよ。
ここでまたこんなことを言うと、話を蒸し返すことになって申し訳ないんですが、人生に自分で終止符を打つってことですけれど・・・。
前に、死は素晴らしいことだとおっしゃいましたよね。
死が本当に素晴らしいのなら、どうして辛い人生を終わらせようと思っちゃいけないんですか?
あなたがたが「死」と呼ぶことは素晴らしいが、しかし、「生命/人生」以上に素晴らしいわけではない。
それどころか、死とは、違うやり方で続く、生命/人生なんだよ。
このことは特にはっきりさせておきたい。
あなたは死のあちら側で自分自身と、それにこの世にいたときにたずさえていた全てと出会うだろう。
それから最も皮肉なことを実行する。
人は、一番最近の人生で取り組まなかったことに取り組むために、自分にふたたび肉体的な生命/人生を与えるのだよ。
また肉体的な生命/人生に戻るんですか?
非物質的な霊(スピリチュアル)的な領域で「おさまる」わけにはいかないんですか?
いや、そうはいかない。
あなたはどんな経験をするかを霊(スピリチュアル)的な領域で選択する。
その選択したことを経験する場を提供するのが、肉体的な生命/人生の目的だから。
だから肉体的な生命/人生を離れても何からも逃れられず、また肉体的な生命/人生に、
つまり、逃れようとした状況に戻ってくるだけだ。
ただし、戻ってきたらまた一からやり直すことになる。
これを「罰」とか「要求」「重荷」と考えることはないよ。
あなたは、それが自己創造のプロセスの一環だとわかって、自由意志でそうするのだから。
それに、あなたは自己創造のために存在しているのだからね。
すると、いま取り組んでいることにまた取り組むんですか?
そうだよ。生命/人生はそのためにあるのだから。
生命/人生をそんなふうに使えば、新しい違った生命/人生を創造する道具(ツール)として死を使う用意ができたときに、あなたは死ぬだろう。
自殺とは逃げるために死を使うことだが、そんなことをしても同じ生命/人生を、
それに同じ課題(アジェンダ)や経験を何度も創り出すだけだ。
そういう説明は効いたことがありませんでした。
それで、いろいろなことがわかりますね。
だから、あなたがたは逃げるための道具(ツール)として死を使おうとすることもあれば、
創造するために道具(ツール)として使おうとすることもあるだろう。
前者は不可能だし、後者なら信じがたいほど素晴らしいことが起こる。
でも、それってちょっと批判がましくないですか?
つまり、自殺は「悪い」ことだと批判していませんか?
神は批判しないものなんでしょう?
同じ人生の課題(アジェンダ)や経験を何度も繰り返して創り出すことは、
べつに「間違って」はいないし、「悪い」ことでもないよ。
同じ課題に何度もぶつかりたいなら、そうすればいい。
何でもそうだが、あなたは好きなようにしたらいい。
ただ、その課題(アジェンダ)から逃れるつもりなら、それはできないと知っておくことが大切だね。また同じ課題と正面からぶつかることになる。また繰り返しだね。
もういやだ、現在の課題とぶつかりたくないと人が感じるのは、自分がたったひとりで取り組まなくてはならないと思うからだ。
これは誤解なのだが、多くの人がそう思っている。
孤独はいまの世界における最大の苦しみだね。
感情的、物理的、霊(スピリチュアル)的な孤独
― ひとりぼっちで、傷つき、重荷を背負っていて、それを誰も理解してくれないし、頼るべき何の力もない、と感じること ―
は確実に絶望を生む。
終わりのない絶望に直面していると、ついには逃げることしか考えられなくなる。
だが、逃げることはできない。
避けたいと思ったことをはじめから繰り返すだけだ。
だからこそわたしはここで、あなたがたには頼る力があるというのだし、あなたもそのことを世界中の人に伝えてほしい。
わたしがそばにいることを絶対的に知るためには、わたしに呼びかけさえすればいい。
絶対の信頼をもって手を差し伸べさえすれば、わたしは手を差し伸べてあげる。
しつこいようですが、ひとつお尋ねしてもいいですか?
いいとも。
どうして、こっちから手を差し伸べなければ、あなたは手を差し伸べてくださらないんですか?
あなたが全知の神なら、わたしたちに助けが必要だってこともわかっているはずでしょう。
ほんとうにこのうえなく慈悲深い神なら、わざわざお願いしなくても助けてくださるはずじゃないんですか?
わたしたちが打ちのめされてぐったりと膝を折っているなら、どうしてそのうえひれ伏してお願いしないと救ってはもらえないんですか?
あなたがこのうえなく愛情深い神なら、こいねがわなくても、その愛情で助けてくださってもいいんじゃないですか?
それから、ついでですが、こう叫ぶ人たちには、どうおっしゃるんでしょうか。
「わたしはあなたに呼びかけたが、応えてはくださらなかった!
わたしが『神』に助けを願わなかったと思われるんですか?
とんでもない、どうしてこれほど絶望したと思われますか!
『神』にさえも見放されたと思うから、これほど絶望しているんですよ!
わたしはまったく見捨てられたんだ。
もう、こんな目にあうのは嫌だ。耐えられない。おしまいです。たくさんだ」
それでは言おう。
ここで、奇跡の可能性について考えてもらいたい。
あなたがわたしの解決策を受け取る経験をしていないのには理由があるのだが、その理由は今は重要ではない。
いま重要なのは、いま、たったいま、あなたの前に答えがあるかもしれない可能性について考えることだ。
目を開けば、見えるだろう。
理性を開けば、わかるだろう。
心を開けば、答えがあると感じるだろう。
それでは言おう。
絶対的に知って、私に呼びかけるときにだけ、あなたは答えが与えられていることに気づくだろう。
なぜなら、「あなた」が知って、「あなた」が感じて、「あなた」が宣言すること、
それだけがあなたの真の経験になるから。
絶望のうちにわたしに呼びかけても、わたしはそこにいるが、しかし絶望があなたの目をくらませ、
見えなくするだろう。
それでは言おう。
あなたが何をしようが、どんなことを引き起こそうが、取り返しがつかず、
癒されることも不可能なほど恐ろしいことはありえない。
わたしはあなたを再び完全にすることができるし、また、そうする。
しかし、あなたは自分自身を批判することをやめなくてはいけない。
いちばん強力な批判をするのはあなた自身だ。
他の人たちは外側から見て批判するかもしれないが、しかしあなたを知らないし見ていないから、その批判は効果がない。
その批判を自分の批判として取り込んで影響を受けることはない。
そんな批判は無意味だから。
他の人が真のあなたを見抜くまで待っていることはない。
他の人たちは、自分自身の苦悩を通してあなたを見ている。
そうではなく、たったいま、このわたしが驚嘆と真実のなかであなたを見ていること、
あなたを完璧だと見ていることを知りなさい。
あなたを見るわたしには、たったひとつの思いしかない。
「これがわたしの愛する者、わたしがおおいに喜びとする者だ」
それでは言おう。
「神の王国」には赦(ゆる)しは必要ない。
神は決して、腹を立てたり傷ついたりしない。
宇宙全体のなかで大事な問題はたった一つしかないし、それはあなたがたに罪があるかないかなどとは関係ない。
大事なのはあなたがたのアイデンティティ、あなたがたは何者かということだ。
あなたがたは真の自分を知っているだろうか?
知っていれば、孤独な絶望も、自分はとるに足りないという思いもすべて消え失せ、
絶望はあなたがたの人生/生命という奇跡に対する驚異の認識に変わるだろう。
そして、あなたがたという奇跡の認識に。
そこで、最後に言おう。
あなたがたはいまこの瞬間、10万の天使に囲まれている。
さあ、その天使たちの援助を受け入れなさい。
それから天使たちの贈り物をほかの人に渡しなさい。
与えることで受け取ることができ、癒すことで癒されるのだから。
あなたが待つ奇跡は、ずっとあなたを待っている。
あなた自身が他の人の待つ奇跡になったとき、それがわかるだろう。
さあ、行ってあなたの奇跡を実行し、あなたの死が最大の悲しみを言明するときではなく、
最大の栄光のときとなるようにしなさい。
死を破壊ではなく創造のための道具(ツール)に、後退ではなく前進のための道具(ツール)にしなさい。
この選択によって、あなたは人生/生命そのものを称え、あなたがまだ物質的な体に宿っているあいだに、人生/生命があなた自信の最大の夢を運んでくる。
あなたの魂の平和がついに実現される。
ありがとうございます。
そのお言葉、ほんとうにありがとうございます。
そのお言葉がすべての人間に届くことを願い、そうなるように祈ります。
それについて、もうひとつだけ質問があるんですが。
ほかの人に・・・医師や愛する人に・・・
人生に終止符を打つための手助けを頼む人については、どうですか?
安楽死のことだね。
それはまったくべつの話だ。
それは現実的なあらゆる意味で人生がすべて終わっていて、死のプロセスの間断のない苦しみと尊厳の完全な喪失以外はもう何も残っていないことを認識したときのことだね。
安楽死を自殺と同じとみなすことはできない。
活動的でそれなりに健康な暮らしをしていながら自殺を考えることは、きわめて特殊な一つの判断だ。そして、あらゆる医学的な証拠からみて、どう考えても終わりが近い人生に終止符を打つことは、まったく別の種類の判断だよ。
あらゆる医学的な証拠からみて、肉体的な人生/生命が終わっている人は、
こう問いかけることを選ぶかも知れない。
「この最期の苦痛と屈辱に耐える必要があるのですか?」と。
それぞれの魂にはそれぞれに正しい答えがあり、どの魂もこの質問に間違った答えをすることはありえない-
なぜなら、「間違った」答えなどありえないから。
なるほど、違いがはっきりわかりました。
道理をわきまえた人ならだれだってわかったと思います。
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